物理教室の歴史的図書を選書して
大阪経済法科大学 永平幸雄

 私は、この間、物理教室の古図書の選書を依頼されて選書作業を行った。選書を依頼されたとき、京都大学理学部物理学教室所蔵の歴史的図書は、以下の点で重要性を具備していると考えた。

 第一点は、歴史が古いことである。物理教室は明治30年6月に創設された京都帝国大学理工科大学にその源流をたどることができる。当初3つの講座として出発し、第一講座は山口鋭之助、第二講座は村岡範為馳、第三講座は田丸卓郎が教師陣であった。帝国大学(現東京大学)の創立は明治19年で、京都帝国大学理工科大学は、それにつぐ古い歴史を持つが、図書の保存の点では、東京帝国大学は大正11年の関東大震災で甚大な被害を被った。京都帝国大学は、震災や空襲を受けることなく、所蔵図書を比較的保管状態の良い状況で保持できた。明治40年に東北帝国大学理科大学が創設されたが、京都帝国大学創設の10年後であった。

 第二点は、湯川秀樹や朝永振一郎のような現代物理学を切り開いたノーベル賞受賞学者が学生時代を過ごし、また助手や教授として研究した物理教室が所蔵している図書であることである。彼らがどのような物理図書を購入し、研究に生かしてきたかは歴史的に興味深いことであり、所蔵図書はそれらを探る手がかりとなる資料である。

 第三点は、明治30年(京都帝国大学創立)すなわち1897年以降の物理図書群として、まとまったコレクションとなっていることである。この時期は、現代物理学の誕生と成長期にあたり、物理学史上非常に興味深い時期であり、コレクション全体が価値ある情報を提供する。

 以上のような問題意識で物理教室の歴史的図書を調査してみて、いくつかの興味深い図書に出会った。

 まず、19世紀末から20世紀前半にかけて発刊されたドイツの物理学教科書、Müller-Pouillet's Lehrbuch der Physik und Meteorologie / von Leop. Pfaundler, Braunschweig : Friedrich Vieweg , 1886-1909が目に付いた。多くの実験が記載されていて、物理実験の辞書代わりに利用できる便利な書である。5巻本で非常に大部な書である。Band.1が力学と音響学で888ページ、Band.2が光学で1189ページ、Band.3が熱学と大気学で1062ページ、Band.4とBand.5は電磁気学で2冊に分かれ両方で1490ページである。すべてのページを合計すると4629ページとなる。同書は1886年から1909年までに発刊された書である。もともとは、Müller, Johann [Heinrich Jakob], 1809-1875とPouillet, [Claude Servais Matthias], 1790-1868の2人の物理学者が著したLehrbuch der Physik und Meteorologie(1847年に第2版が出版されている)をLeop. Pfaundlerが引き継いで物理学教科書として次第に大部な書にしていった書である。

 この書は大部でほとんどの物理実験分野を網羅しているので、当時の物理実験を理解するのに非常に有益である。たとえば、上図は、同書(Band.1,p.685)に掲載されていたカレイドフォンの図版である。この実験機器は現在、市販されていないし、使用されてもいない機器である。金属棒の先端の動きでリサージュ図形を描かせる実験に使用する。当時は、物理図書に写真は使用されておらず、詳細なエッチングで図版が描かれている。優れた物理図書は、精細できれいな実験の図版が掲載されていた。

 物理教室の教授が著した著書も残っている。水野敏之丞は、帝国大学理科大学(現在の東京大学)物理学科を卒業後、明治23年から26年まで第三高等中学校に勤務した。京都帝国大学が明治30年に設立されると、その理工科大学助教授として赴任した。大正3年に理工科大学が理科大学と工科大学に分離すると、水野は理科大学長となった。電波の研究、X線の実験で名をなしている。物理教室の第三講座の田丸卓郎の後を継いで電磁気学で教鞭をとったが、教育面で熱心で、近代物理学に関する多数の著作を出版した。以下の5つの著作が物理教室図書として残っている。右図は物理図書室蔵の水野敏之丞の写真である。

電子論 水野敏之丞著 東京 丸善 , 1912.12
原子論 水野敏之丞著 東京 丸善 , 1914.4-1916.7
電子ノ活動 水野敏之丞著 東京 丸善 , 1918.2
電子及原子論大要 水野敏之丞著 東京 丸善 , 1925.2
無線電話大要 水野敏之丞著 東京 丸善 , 1925.11

 物理教室には、明治30年以降の古い物理実験機器が保管されている。すでに定年退官された名誉教授の加藤利三元教授がそれらを整理・調査し、物理教室のHPで公開した。分光器等の分光関係を中心に73点の機器が保管されているが、それらの調査に欠かせないのが、古い実験機器商品カタログである。古い実験機器は物理学史、物理教育史を物語る貴重な歴史資料であるが、その使用法、使用目的等は当時の物理実験書や当時の実験機器メーカーのカタログで調べるしかない場合が多い。このような商品カタログは研究室で読まれ、実験装置が注文され、カタログは古くなれば廃棄されていく。つまり、図書ではなく消耗品として扱われるのである。したがってそれらのカタログが現存することは希なのであるが、ページ数の多いカタログは、図書と間違われやすいのか、残存する場合がある。物理教室に残っているカタログ類の一部として、以下の3点が挙げられる。

Price list of apparatus for experiments in practical physics / manufactured and sold by Baird & Tatlock (London) Ltd. London, Baird & Tatlock Ltd., 1912

化學器械及藥品目録 = Catalogue of chemical apparatus and chemicals / 島津製作所[編] 京都、島津製作所 , 1926.10

物理器械目録 = Catalogue of physical apparatus / 上山正英著 京都、島津製作所 , 1929.5

 このうち、Baird & Tatlock社(ロンドン)のカタログは日本では、この物理教室にしか存在しない。以下の図版は同カタログに掲載されている工場の挿絵である。当時の実験機器メーカーの工場の様子が描かれていて興味深い。馬車で荷物を運んでいたことがわかる(下図)。

下の図は、同カタログ(p.410)のEthelon Diffraction Gratingの図版である。スペクトルの微細構造を見るために利用されたGratingで、光の多重反射を利用したGratingである。今日ではもう使用されていないが、原子物理学勃興当時、極めて有用な研究器具であった。水野敏之丞や長岡半太郎がこれを使用して研究している。カタログには、プレート数10枚で13ポンド、プレート数20枚で35ポンドの値が付けられている。物理教室に保存されているEthelon Diffraction Gratingは2個あり、どちらもAdam Hilger社製で、一方は10プレート、他方は、40プレートである。後者は大正5年購入で1203円12銭という当時としては非常に高額な価格が付けられている。

 物理教室の歴史的図書には、上記で述べたように、さまざまな側面から歴史研究にとって貴重な図書が数多く含まれている。また19世紀末から20世紀初めにかけての、現代物理学創設期にあたり、また日本の物理学の成長期にあたる時期の図書が、ひとつのまとまった物理図書群として存在していることの意味は大きいと私は考えている。重要な歴史的物理図書として後世に大事に引き継がれていくことを願うばかりである。